こんにちはノリスケです。
3月4日(月)21:00からテレビ東京系で放送の世界ナゼそこに日本人医師肥沼信次(1908~1946年)さんが特集されます。
すでに亡くなられていて、歴史上の人物となりますね。
番組予告では
戦後混乱期のドイツのとある田舎街で、恐ろしい伝染病が大流行、村全滅寸前の大ピンチに…。そんな中たった一人で病気と戦った日本人医師がいた!しかもその医師は、日本人ながら現地の名誉市民に選ばれるほどの“歴史的大偉業”を成し遂げ、病から村を救ったのだという。さらに彼の死から43年後に奇跡の出来事が!死後70年以上経った今でも多くのドイツ人から感謝され続けている日本人医師の偉人伝説に迫る!
今回は肥沼信次さんの経歴や業績、について調べた結果を紹介しますね。
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肥沼信次さん
見た目若いですね。
実は、37歳で短い人生が終わっています。
経歴
明治41年(1908年)東京の八王子の外科医肥沼梅三郎、ハツの間に生まれた肥沼信次さん。
生家は経世学舎で学んだ軍医で八王子市中町で医院を開業していました。
そんな医者の家に生まれた肥沼信次さんは、幼少期より厳しく育てられます。
高校や大学は?
東京府立二中(現立川高校)を卒業後医学を志していた肥沼信次さん。
1年の浪人を経て、昭和4年(1929年)日本医科大学に入学しています。
浪人してしまった理由に、受験科目をおろそかにしてまで熱中していた数学の存在が挙げられます。
実は数学が大学の卒業アルバムに「趣味」とあるほどの数学好きだったんですね。
この数学への情熱が「将来ドイツで研究をしたい」という志に変わっていくのでした。
この時代のドイツは、アルバートアインシュタインやポーランドのキュリー夫人が活躍されていたころです。
この頃のドイツは医学先進国、最先端の環境で学びたいと思いの強さは受験でつまづくということになります。
大学時代
1年浪人して昭和4年(1929年)に日本医科大学に入学した肥沼信次さん。
実は浪人時代も数学の情熱は消えていませんでした。
東京物理学校(現東京理科大学)で数学を教えるアルバイトをしていました。
大学で学んだ肥沼信次さんは、卒業後25歳で東京帝国大学放射線研究室へと進みます。
これは今でいう大学卒業後の大学院という流れになるのでしょうね。
東京帝国大学放射線研究室へ
昭和9年(1934年)東京帝国大学に25歳で進学した肥沼信次さんは、放射線の医学的利用について取り扱う放射線医学の研究に取り組むことになります。
放射線医学は数学的思考が重要な分野で、得意の数学を存分に生かせる分野だったのですね。
東京帝国大学では、ひたすら研究に没頭し、3年間で3編の論文を発表しています。
この時の業績が認められ、昭和12年(1937年)に日本政府の国費留学生として、ドイツに渡ることになりました。
ちょうどこの頃の日本とドイツは前年の昭和11年(1936年)には日独防共協定を結び、昭和12年(1937年)の日独伊三国同盟が結ばれた時。
留学先はこうした情勢が影響していたのかも知れませんね。
この時28歳の肥沼信次さん。
ドイツに渡り、そして二度と日本に戻ることはありませんでした…
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ドイツでの業績
昭和12年(1937年)国費留学生としてドイツに渡った肥沼信次さん。
ドイツでは感染症研究所であるコッホ研究所に入所します。
その後ベルリン大学(現フンボルト大学)放射線医学研究所に客員研究員として参加します。
このベルリン大学はアインシュタインが教授を務めていた大学で、憧れの、そして充実した時であったに違いありません。
憧れの場所で研究に没頭した肥沼信次さんは、次々と論文を発表していきます。
- 「生物学的的中理論および突然変異の発生」
- 「生物学的な放射線の影響の論理について」
- 「細胞核ないし遺伝子の倍化および核ないし染色体の遺伝子の総数について」
論文の題名をみても何のことだか?と思われますがこの時の業績が認められ、
昭和14年(1939年)にはアレクサンダー・フォン・フンボルト(AVH)財団の研究奨学生に選ばれます。
このアレクサンダー・フォン・フンボルト財団はドイツと諸外国の研究者による協働サポートを目的とする財団です。
肥沼信次さんの死後、AVH財団によって肥沼信次の特集号がまとめられます。
ベルリン大学の教授に!
昭和19年(1944年)35歳でベルリン大学の教授に推薦されています。
これは東洋人として初の快挙でもありました。
フンボルトハウスで行われて講演では、ゲルマン民族至上主義を掲げていた当時のドイツの中で「日本民族の優秀性」について主張しています。
この当時のドイツでは、言論統制やユダヤ人の迫害があった時。
大学の教職志願者はナチスへの忠誠を誓う宣誓書をドイツ政府に提出するよう強いられている時代でした。
時代背景からしても、とても毅然とした勇気ある発言であったのですね。
帰国指示…3月18日の大使館集合に姿はなかった…
昭和20年(1945年)3月にはドイツの戦況が悪化、日本大使館からベルリン在留の日本人に対して帰国指示が出されます。
3月18日に大使館に集合のはずでしたが、そこに肥沼信次さんの姿はありませんでした。
この時の理由は明らかにはされていません。
しかし、昭和20年(1945年)5月8日にドイツが無条件降伏をするのですが、この時のドイツは大混乱に陥り、食糧不足による栄養失調、下水道の破壊による不衛生、住居を失った人達の集団生活により伝染病の蔓延などが起きています。
しかもこの時、発疹チフスが大流行していました。
リーツェンに移住…そして
リーツェンとはベルリンの東約80kmの距離にあります。
ドイツとポーランドの国境付近にある町ですね。
ここでチフスが大流行していたのでした。
肥沼信次さんは昼夜を問わず伝染病にあえぐ患者の治療に尽力し、多くのドイツ人を救いました。
しかし…昭和21年(1946年)3月8日…37歳という若さで発疹チフスのため他界しました。
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歴史に封印されるも…
その後、リーツェンは東ドイツになり、肥沼信次さんの業績は闇に葬られます。
しかし、多くの人々を救った肥沼信次さんの業績は忘れ去られることはありませんでした。
東ドイツ時代を経て、肥沼信次さんの資料は残っていませんが、リーツェン市にあるフリート広場に立派な墓があり、献花が絶えることはありませんでした。
肥沼記念杯
リーツェン市では現在、毎年3月にドイツ、ポーランドの少年・少女たちの柔道大会が行われています。
数百人の参加者が試合前に彼の墓に献花をすることになっています。
これは平成3年(1991年)から行われています。
またリーツェン市役所には肥沼信次さんの記念プレートが飾られ、市内の郷土博物館には彼の記念室が設けられています。
こうしたことからも多くのドイツ人から尊敬されている肥沼信次さん。
コエヌマノブツグをご存知の方はいないか?
多くのドイツ人を救った肥沼信次さんの業績は、ドイツ人は忘れていませんでした。
リーツェン近郊の郷土博物館館長であるラインハルト・シュモーク博士は、リーツェンの人々を救ったコエヌマノブツグという医師の存在を知り、肥沼信次さんのことを調べていました。
それを聞きつけたAVH財団の研究所長クルート・R・ビアマン博士が、ベルリン大学で同僚だった数学思想史家、村田教授に新聞への投稿を依頼したのです。
平成元年(1989年)には朝日新聞の尋ね人の欄に「コエヌマノブツグをご存知の方はいないか」を投稿しました。
このことを知った弟の栄治氏が村田教授に連絡をしてようやく日本の肥沼氏の遺族が消息を知ることになります。
これまで、肥沼信次さんの消息はわからなかったのですね。
いまでは八王子市とリーツェン市をつなぐ架け橋として、墓参に訪れています。
まとめ
こちらはアンビリバボーでも取り上げられています。
肥沼信次さんの死後、その業績はAVH財団によって「肥沼信次」特集号としてまとめられることになります。
1993年当時で約16,000人を数えた歴代研究奨学生の中で、こうした扱いを受けたのは肥沼信次さんただ1人でした。
こんな日本人がいたなんて、記事を書きながら胸が熱くなってきます。
また八王子市でも。
伝染病撲滅のために自らの命までを捧げた肥沼信次さんは、ドイツ人の心の中に生き続けているんですね。
それでは最後までお読みいただきありがとうございます!
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