上村直己の最後の謎!交信記録は?五大陸最高峰登頂の栄光についても

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こんにちはノリスケです。

5月8日夜10:00からNHKで放送の先人たちの底力に、冒険家の上村直己さんが特集されます。

上村直己さんは、

 

今回は上村直己さんについて調べてみました

 

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上村直己さん

 

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まずはプロフィールから

 

プロフィール

  • 上村直己(うえむら なおみ)
  • 昭和16年(1941年)2月12日ー昭和59年(1984年) 享年43歳
  • 兵庫県(旧城崎郡日高町)現 豊岡市出身
  • 明治大学農学部卒

上村直己さんの実家は農家で、3代前の上村直助の「直」とへび年の「巳」

で直巳が本来の名前のようです。

役場の戸籍担当者が間違えて「直己」と登録したようです。

それでも…

巳(へび)より己(おのれ)のほうが格好いいとのことで直己を名乗るようになったようです。

 

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経歴

小さなころより同郷で単独登頂を多く成し遂げた加藤文太郎や登山への憧れがあった上村直己さん。

高校1年生のころ学校行事で登った蘇武岳(1074m)を皮切りに但馬の峰々を登り始めます。

幼少期のころより平凡を自覚し、長く自信を持てないでいたそうです。

不安がる性格は幼少期のころより培われてきたのですね。

兵庫県立豊岡高等学校を卒業し一時運送会社に就職します。

しかし翌年の昭和35年(1960年)に明治大学農学部農産製造学科に入学、登山部へ入部します。

入部当初不器用でよく転ぶため、「ドングリ」というあだ名を付けられた上村直己さん。

しかし…

精力的に登山を重ねる姿、経験を積むためのひたむきな努力が認められてサブリーダーに抜擢されます。

不器用でありながら、一つ一つ積み重ねていった経験や努力、また行動力は今後に生きてくるんですね。

大学を卒業し就職試験に失敗します。

この時の心情は本人しか知りえないことですが…

山岳にのめりこむいい環境に身を置くことができました。

以前聞いていた山岳仲間から氷河の絶景を聞き渡航を決意します。

モンブラン登頂失敗

ヨーロッパのアルプス氷河へ行く資金を稼ぐために、とび職のアルバイトやお兄さんの援助を手元に横浜から移民船「あるぜんちな丸」に乗り込んでアメリカへ渡航します。

ロサンゼルスのブドウ農園で不法就労が見つかり強制送還される事態に。

通訳を通してなんとか免れるものの、今度はフランスへ渡航します。

最初に選んだ山はモンブラン(4810m)

 

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フランスとイタリアの国境を接し、ヨーロッパアルプスの最高峰、大変美しい山としても知られていますが…

単独登頂に挑むもクレバス(氷河の割れ目)に落下します。

奇跡的にアイゼンの刃と荷物が氷壁に引っ掛かって宙づりになり、2mの落下で済んだのでした。

通常であれば命を落としている事故でした。

この時の上村直己さんは恐怖で心が折れ、登頂を断念します。

この時の教訓事項として、

4mの竹竿2本を横に倒して両端を前後に胴につけ、転落防止のストッパーとしました。

その後、モルジヌのスキー場で 稼ぎつつ登山活動の拠点としました。

昭和40年(1965年)明治大学のゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰 8201m)

登頂隊に途中参加し登頂を果たします。

その後再びモルジヌに戻りますが、黄疸で一ヶ月の闘病生活を余儀なくされます。

この時の上村直己さんはどういった思いでいたのでしょうか?

きっと、挫折感が半端なかったと思われます。

でも…

ここで諦めなかったからこそ、なんですね。

 

モンブラン・マッターホルン・キリマンジャロ登頂

昭和41年(1966年)7月モンブラン、

続いて7月25日マッターホルン(4478m)単独登頂に成功します。

 

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さらに…

10月24日アフリカ最高峰キリマンジャロ(5895m)の単独登頂に成功。

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昭和41年(1965年)はこの3つの山に登頂成功します。

でも…本当にスゴイはここからなんです。

 

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世界初!五大陸最高峰登頂者に

昭和43年(1968年)南米最高峰アコンカグアに単独登頂を果たします。

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この時、アマゾンの川をいかだ下りで6000km

続いて1968年には南米最高峰のアコンカグア(6961m)単独登頂に成功します。

この時上村直己さん27歳。

アコンカグアは登頂まで20日かかるといわれていたのですが、実際には15時間で登頂に成功します。

とんでもない体力の持ち主ですね。

この後アマゾン川のいかだ下り6000kmの冒険をします。

この時はピラニアとバナナを食べながら河口まで2か月かかっています。

すごすぎですね。

その後…

北米最高峰のマッキンリー登頂を目指すが、単独登頂の許可が下りず断念し、4年5カ月ぶりに日本に帰国します。

ここまで破天荒な生きざまって、山がすべてじゃないと無理ですね…

 

エベレスト登頂!

昭和45年(1970年)に

日本山岳会が創立65周年事業としてエベレスト登頂隊派遣を決定します。

この時、山岳部の先輩である大塚博美さんに誘われ植村直己さんも参加します。

自己負担金を用意できなかった上村直己さんは

荷揚げ、ルート工作要員としての参加になりました。

しかし…

抜群の体力などが認められ、第1次アタック隊に選ばれ5月11日、松浦輝男さんとともにエベレスト南東稜から登頂に成功します。

この時のエピソードがホント素晴らしいです!

アタック隊の先頭にいた上村直己さん。

頂上を前に「いよいよ頂上です。松浦さん先に登ってください」と先を譲ります。

裏方として参加したはずの上村直己さんはこう交信しています。

「ありがとうございます。私だけが登ったのではありません。皆さんの力が私を頂上にあげてくれたのです!」

一緒にスタッフとして現地に行きながら登頂がかなわなかった人の分まで背負って登頂していたのですね。

マッキンリー登頂成功

 

同年8月26日、アラスカにて北米最高峰マッキンリー(6168m)の単独登頂を成し遂げ、20代最後の年に

世界初の五大陸最高峰登頂者』(エベレスト・モンブラン・キリマンジャロ・マッキンリー・アコンカグア)となりました。

この年…

アメリカエクスプローラーズクラブからアカデミー・オブ・アチーブメントを授与されます。

 

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極地探検へ

五大陸登頂のあとは、極地探検を目指した上村直己さん。

南極の単独横断を目指します。

南極の横断には3000kmあるのですが…

この距離は、北海道稚内から九州鹿児島を51日間で踏破します。

昭和47年(1972年)9月から5カ月間、グリーンランドでエスキモーと共同生活を行い、狩猟や犬ぞり操縦技術を学びます。

そのままグリーンランドで3000km犬ゾリ単独行も。

ホント凄すぎる人ですね。

さらに…

昭和49~51年(1974年~76年)まで1年半をかけ、

北極圏12000kmの犬ぞり探検に挑み、成功します。

この時…

そりの“海中”水没、犬の全頭逃亡という死の危機に直面しているんですね。

毎回死にそうになりながらもこうして生きながらえるというのは、

ある意味不死身かもしれません。

 

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昭和53年(1978年)には
米国ナショナルジオグラフィック協会から資金提供を受け、史上初の単独北極点到達を犬ぞりで成し遂げました。
この時日本人として初めて『ナショナル・ジオグラフィック』の表紙を飾ります。
ちなみに…
この時日本の大規模隊が同じ北極点を目指しており、彼らに良い犬を独占されてしまい、植村は犬集めに苦労したとのエピソードもありました。

北極圏の犬ぞりで、全頭逃亡している上村直己さんにとって悪夢だったに違いありませんね。

実際にちゃんと引いていたのは7頭くらいだったのだとか。

ホント凄すぎる探検家ですね…

 

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最後のマッキンレー登頂成功…

数々の冒険で名声を得た上村直己さん。

あとは出発するだけとなった南極大陸の単独横断を目前にして、

なんと!

勃発してしまったフォークランド紛争。

アルゼンチンで10か月も足止めされてしまいました。

このため、アメリカ軍の協力を得るために再びマッキンリー登頂へと舵を切ります。

成功すれば世界初となる北米最高峰マッキンリーの冬期単独登頂を敢行します。

かつて「探検家になるために必要な資質は臆病者であることです」と持論を語っていた上村直己さん。

しかし…

悪天候のため雪洞で待機中に「何が何でもマッキンレー、登るぞ」(2月6日)と記すほど焦っていました。

山頂はマイナス50度の極寒の世界、

「冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である」

と持論を展開していたはずなのに…

登頂成功…しかし

昭和59年(1984年)2月12日、43歳となった上村直己さん。

世界初となるマッキンリー冬期単独登頂を果たし、山頂付近に日の丸を建てています。

しかし…

最後の交信内容は?

13日に行われた最後の交信の内容です。

この交信以降は連絡が取れなくなり、下山途中で消息不明となってしまいます

私がいるのはサウスピークからずっとトラバースして…

標高…えーあとは…20000フィート(約7千メートル)。

えー、私もよくわかりませんが約20000…20000、20000フィートです、どうぞ。20000、20000、20000フィート」

こんな内容でした。

 

上村直己最後の謎

2月20日には

救援隊が4200m地点の雪洞で植村直己さんのの日記を発見しています。

4900m地点の雪洞には食べ残しの食糧や装備の一部もありました。

さらに5日後、5200m地点の雪洞にて35点もの装備と整理された食糧が見つかっています。

マイナス50度の極寒の世界は人の想像をはるかに超える極限の事態が起きたものと思われます。

 

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まとめ

食糧も雪洞もあるのに、ただ植村直己さんの姿だけがなかったマッキンリー。

植村直己さんのの身に何が起きたのかは今現在も下山していないことを考えると、

どこかで事故に遭ったのでしょう。

明治大学山岳部OBによる第二次捜索隊はマッキンリー山頂で日の丸を見つけました。

が、消息の手掛かりはなく、最後の交信があった2月13日が命日とされました。

他界の2カ月後の昭和59年(1984年)日本政府は国民栄誉賞を贈っています。

同年、デンマーク政府は植村直己さんに敬意を表し、

かつてグリーンランド縦断で到達したヌナタック峰を「ヌナタック・ウエムラ峰」と改称しました。

伝説となってしまった上村直己さんの生涯は冒険とともにありました。

ホント破天荒な生き方ですよね。

いかがでしたでしょうか?

こんな偉大な日本人がいたことに敬意を表したいですね。

それでは最後までお読みいただきありがとうございます!

 

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    40代のしがないサラリーマンです。 タイ子とイクラの3人家族です。 日々の気になる出来事に一隅を照らしていきます。 「一隅を照らす」とは 自らの置かれた立場を受け入れて、 その中で頑張っていつか花を咲かせよう そういう思いから立ち上げました。  

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